9/11(日)Walkin'About@古川橋
都市計画とは何か、を突き詰めて考えていくと
密集住宅地の問題にたどり着きます。
人が快適に住むことができる環境を
都市計画家が俯瞰してデザインするよりも先に
部分最適的に開発が進んだことで生まれた住宅。
災害時の脆弱性が指摘される一方で
コミュニティを育み暮らしていくという面では
その可能性は前向きに評価できるのでは。
そんな仮説を、現場をよく見ることで確かめたい。
ということで、次回のWalkin'Aboutでは古川橋を歩きます。
自分が行きたい場所を訪ねるまちあるき
「Walkin’About @古川橋 (門真市)」
開催日:2016年9月11日(日)
集合時間・場所:16:00 @京阪古川橋駅改札
再集合時間・場所:18:00 @同上 参加無料
門真市がある河内平野は、かつては河内湾でしたが、縄文後期には一部が陸地化、弥生前期には定住生活が可能になりました。
古事記・日本書紀には、仁徳天皇が淀川の度重なる洪水被害からこの地を守るために茨田宿禰(まむたのすくね)に命じ、茨田堤を築かせたとあります。
堤の完成後、この地は急速に発展。平安後期は朝廷・寺院・武家などの荘園が作られ、鎌倉・室町の頃には全域が農地として開拓されました。江戸期には8割以上が天領となりました。この時代には古川の氾濫も収まり、豊かな水郷農村として発達し、低湿地を生き抜く知恵として段蔵やバッタリが生み出され、江戸後期には菜種や木綿の栽培、レンコン栽培が活発化しました。近代には石川県と岡山県から優良なレンコンの種を導入し、改良を加えた結果「河内レンコン」の名が全国に広まりました。
1910年(明治43年)、京阪電車の開通によりまちは変化を始めます。1933年(昭和8年)、松下電気器具製作所(現:パナソニック)が工場を建設し、以後は同社の企業城下町として発展しました。
1963年(昭和38年)、約6万人をもって市制を施行。高度経済成長期には大阪都市圏の拡大により人口は急増、70年代には約14万人に達しました。急速な人口増加は農村農業を著しく衰退させるとともに、様々な都市問題を引き起こしました。
門真市北部地区(国道163号北)には木造の文化住宅、長屋住宅、アパートなどが数多く建てられましたが、今では老朽化が著しく、空家も増加しています。 また道路が狭小であるため緊急車両が通行しにくく、災害時の脆弱性が指摘されています。
今回はこの街を、みなさんの視点で切り取っていただきます。
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“Walkin’About”は、参加いただくみなさんに、思い思いのコースをたどっていただく
“まちあるき”です。参加者の方々は、集合場所でエリアについての説明を受けたあと、解散。
約90分後に再び集合いただき、それぞれの見聞や体験を発表いただき、シェアします。