10/8(土) Walkin’About @野崎
縄文前期には大阪平野は生駒山の麓まで河内湾でしたが、弥生時代には湖となり、野崎や北条、中垣内辺りに集落が成立しました。平安時代には東高野街道沿いに集落ができ、奈良へ向かう中垣内越の道と交差する寺川、中垣内辺りは交通の要衝となりました。この地には豊富な魚介や特産物の蓮があり、今の赤井付近には皇室の食料を調達するための供御領が存在しました。
中世には戦略上重要な場所となり、四条畷の戦いや三好長慶が居城を構えた飯盛山などで歴史に名を残しています。この頃には河内池は深野池、新開池の2つの池となり、深野池に浮かぶ島には飯盛城の支城・三箇城があり、城主でキリシタンの三箇頼照はこの地に教会を建設しています。
1704年の大和川の付け替えと深野池、新開池の干拓、新田の造成により、地域の姿は一変。新田開発は各地からの開拓民によって進められ、彼らの定着により稲作を中心に木綿、菜種などの生産高は飛躍的に増大し、天下の台所・大坂を支える地位を確立しました。そして大坂―奈良の中継地、農産物の集散地、貸客舟運の拠点(角堂浜、住吉神社)として大きな賑わいを見せました。野崎観音参りなど都市部との行き来も盛んになり、そのことは「河内名所図絵」や「人形浄瑠璃―お染久松」を通して知ることができます。
明治以降は、地元篤志家による深野郷学校の開設、1892年の浪速鉄道(後に国有鉄道片町線)の開通など近代化が推し進められました。大正に入ると人口が1万人を超え、電灯の設置や上水道整備が実現しました。
1956年には大東市が発足。高度経済成長期には住宅、工場、事業所の進出が著しく、急速な人口増加と都市化を経験しましたが、1972年と1975年には集中豪雨により河川が氾濫し、大東市域は未曾有の水害に襲われました。大東市ではこの大災害を教訓に、水道事業の推進、河川や水路の改修を最重点に道路、公園、教育、福祉施設等に力を入れ、積極的なまちづくりを行っています。
今回はこの街を、みなさんの視点で切り取っていただきます。
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“Walkin’About”は、参加いただくみなさんに、思い思いのコースをたどっていただく“まちあるき”です。参加者の方々は、集合場所でエリアについての説明を受けたあと、解散。約90分後に再び集合いただき、それぞれの見聞や体験を発表いただき、シェアします。