朝ドラ「ひよっこ」とサブテキスト
NHK朝ドラ「ひよっこ」が、終わりましたね。
時代は1964年の東京オリンピック前後。
茨城県北西部・奥茨城村の米農家の娘・谷田部みね子が
東京に出稼ぎに出ていた父・実の失踪を機に上京。
向島のトランジスタラジオ工場の寮に暮らし働きつつ
父を探すも、オリンピック後の不況で工場が倒産。
行くあてのないみね子を拾ってくれたのは、かつて父が
ハヤシライスを食べた赤坂の洋食屋「すずふり亭」。
みね子はホール係として働き、裏の「あかね荘」に暮らしながら、
様々な試練を乗り越えて成長していきます。
このドラマは、欠落を機に、こことは違う場所に行き、
欠落を取り戻して帰るという、物語の基本文法に従って
展開されています。
(ただし、みね子は最後に奥茨城には帰りませんでしたが)
そして主人公の行動を通じて、周囲の人々が変化し、
欠落を取り戻し、癒されていきます。
この構造は、岩手県北三陸市を舞台に描かれ
好評を博した「あまちゃん」とよく似ていて、
制作側が2つの対をなす作品にしようという
はっきりした意図を持っていたと想像されます。
(タイトルが「あまちゃん」「ひよっこ」で、
同じく東北と東京の往復をを描いている、
そして宮本信子さんと有村架純さんがともに
親子的関係で登場するのでから明白ともいえますが)
普通に観ていてほのぼのする作品なのですが、
特に評価したいのは、セリフに対する感受性の高さです。
登場人物のキャラクターを丁寧に作っていくと、
この人はこの状況できっとこういうことを言うだろう、
その言葉を、他の登場人物は嬉しいと思ったり、
失礼だと思ったり、勘違いして受け取ったりする。
そこから自然にドラマが転がっていく。
おそらく脚本家の仕事は、彼らが次に何を喋るのかを
耳をすませて聴く、という作業だったのだろうと思います。
「サブテキスト」、という言葉があります。
登場人物が発するセリフが、本当に意味していることを言います。
“絶対に言わないで”というセリフが、
“本当は言ってほしい”という意味だったりする。
それが聞いている相手にも視聴者にもすぐには分からない。
僕らは日常を生きていく中で、思っていることを
そのまま口に出しているわけではなく、
それと言わずに相手に悟ってもらおうとしたり、
伝えたくないのに、態度で分かってしまったり、
ということを繰り返していますが、
それをドラマの中でうまく使うと、
人物造形に深みを与えたり、
宙吊り感で物語を引っ張って行けたりします。
そのあたりが何とも秀逸だなと、毎日観ていました。
そして史実かどうかよりも、サブテキストが豊かかどうかが
自分の中で、より大事な要素になった気がします。
昨日、南草津のカフェでランチをしていた時に、
隣のテーブルに、フラダンスを習っていそうな
50代の女性2人が喋っていました。
「そういえば、今日、ひよっこ最終回やったね」
「私、観たよ」「どうやった」「しょうもなかったわ」
「あ、そう、ところで…」
僕は上に滔々と書いてきたことを
2人にとても言いたかったのですが、我慢し、
ここに書くことにした次第です。